社会的役割としての古本屋
ライブドア事件から「商売」というものについて考えてきた。では、古本屋の商売と社会的責任はどうだろうか。
ウチの店は、元々店主の好きな文学書を中心に、なかでも古い古今東西の文学全集の端本などをリストに並べて商売を始めたのだが、今の世の中、当然のごとく、そんな文学関係本はまったく売れない。一冊200円、300円でも今まで3年やって売れたのは4.5冊程度だ。そこで仕方なく、アマゾン中心に実用書やビジネス書などを売って何とか食いつないできた。本店の方のそうした不良在庫はほとんど注文ないのに場所や探すのにテマばかりかかるから、昨年の暮れ、フランス旅行へ行く前に、もう本店にある本は全部販売中止の表示を出して帰ってからもそのままにしておいた。
ところが、先日その本店のサイトを見た関西在住の女性の方から、販売中止となっているけど、どうしても欲しい本があるので売ってくれないかと問い合わせがあった。本は、田宮虎彦集、新潮社から昭和37年に出た、日本文学全集の一冊だ。どうやらネットであちこち検索したがヒットしたのはウチだけだったとのこと。要望があれば売るのは古本屋として当然のことなわけで、倉庫にもぐって探して送った。そしたら丁寧なお礼のメールが届き、探している理由も記されていた。
その方は塾の講師をされていて、高三の受験対策問題集に、田宮の小説の一部が引用されていたのをきっかけに、その作家に関心を持ちその作品だけでなく、他の作品も読んでみたくなったのだそうだ。
この方とはこの一冊、一回限りのおつき合いではあったが、古本屋の楽しさ、喜びとはこうして見知らぬ人と本を通して出会え喜んでもらえたということに尽きよう。お役に立てた!という嬉しさは筆舌に表せない。これは儲かる、儲からないということとは別次元の話だ。この広い日本の中でたった一人でもその本を望む人がいるのならばそれに応えるのが古本屋の責務だろう。商売として考えたら割の合わない話だ。しかし、人のために役立ち、人に喜んでもらえるのならそれは仕事としてやりがいがあるではないか。その満足感は金の多寡では得られないものだ。この世には金で買えないものが確かにある。増坊はこの田宮虎彦集の注文を受けて、また本店の方も文学の棚をきちんと整備し直し、近いうちに販売を再開しようと強く決心した。