フランスの美徳・日本の美徳・後
フランスの美徳といえば、ともかく彼らは親切で上品だということだろう。
道を尋ねれば、まずたいてい誰でも親切に教えくれるし、ドアは後ろの人のために開けておいてくれるし、重たい荷物をいくつも抱えて休み休み歩いていたら、一つ抱えて運んでくれた。誰とでも挨拶を交わすし、ぶつかりそうになれば席や道を譲ってくれる。街中、社会の中におけるフランス人はみんな気さくでフレンドリーである。ところが組織の一員となると甚だ身勝手に思えることがある。それが個人主義社会ということなのか。
フランスにストが多いことは周知の事実だが、今回、増坊はついにそれに出くわした。しかも最終日、これから空港に向かおうとする日のことだ。空港へは郊外線で行くしかないので、ホテルから一番近くのメトロの駅で空港までの連絡切符を買った。窓口の駅員の男は売ってくれたが、その切符を自動改札に入れようとしたら、セロテープが貼ってあって入れられない。困っていたら駅員は何か言ったが、そのまま通れというポーズをしたので、おそらく自動改札機は故障してるのだと思い聞き返さずに中に入った。ところがこれは、ストライキだったのだ。
郊外線への乗換駅である北駅へ着いたら、空港へ行く線は途中までしか動いてなく空港へは行けないことがわかった。大きなスーツケースを抱えた人たちがみんな憮然とした顔で駅から引き返してくる。その一人に訊いて初めてストライキ中だとわかった。仕方なく、駅を出てターミナルでタクシーを拾って何とかギリギリで帰国便にかろうじて間に合った。今思い出しても腹が立つ。どうしてあの駅員はそのことを教えないのか。こちらは外国人の旅行者で大きな荷物を抱えていたのも見たはずだし、空港まで列車は動いていないのも知っていたと思う。だのに平気でその切符を売るのがフランス人なのである。おそらく彼は、自分の仕事は切符を売ることにすぎないと言うだろう。求められたから売ったのだと。客へのサービスはそれで完了していると。
日本社会ではまま“余計なお節介”が街に、公共の場所にあふれている。電車内や駅での放送もそうだ。以前、日本に来た仏人たちの集まりに立ち会ったとき、彼らが、その公共放送のことをウルサすぎると笑いの種にしていたことを思い出す。しかし、余計なお節介的相互に干渉し合い、気を配るのが日本の社会であり、それはまた皆が社会の一員、共通の構成員であると自覚しているからなのだろう。結果的に日本はそれでモノゴトがスムーズに動いている。少なくても日本の鉄道会社ならストライキをやっていること、空港まで動いていないことは窓口で教えてくれたと確信する。
日本社会には誰もが皆無意識に“連帯責任”のような意識を持っている。フランス人にはそれはない。あるのは各個人個人の責任だけだ。それが個人主義の国と言われる所以なのだ。