過剰さとモッタイナイと
昨日の続き。このブログが何故長くなるかまだ考えている。
ふと、これはある世代特有のものではないだろうかと思いついた。増坊の父母の世代は、所謂戦争をリアルに体験し、戦後の物不足で大いに苦労した世代であったから、未だすべてにおいて、モッタイナイ思想がこびりついている。ケチでもあるが、根本的に貧乏性というのか思い切った贅沢など絶対にしないしできないタイプだ。ということは結果として損しているわけで、のんびり余裕をもって生きればいいはずなのに未だに常にセカセカ慌ただしく日々費やしている。
増坊もそんな親たちをイヤだなあと思いつつも結局彼らからそうした教育やライフスタイルを受け継いでいることに気がつく。
もっと若い人たちみたいに気軽にこだわりなく何でもポイポイ捨てられたり、モノゴトに囚われずスッキリ生きられたらと心から思う。身の回りに溢れて収拾つかなくなっているモノたちを本だろうが何だろうが一気にサッと思い切って捨ててしまいたい。ところが、親譲りのモッタイナイ精神が頭をもたげ、まだ使える、いつか使うかも、本ならばいつか読む、いつか役に立つかもと結局処分できない。
怖いことにこの感覚は実は日常生活のすべてにおいて基本を成していて、例えばあるスペースがあるとする。部屋でもノートの1ページでもいい。そこを空かしておくことができない。できるだけびっしり埋めたりいっぱいに使わないとモッタイナイのだ。たとえそれがタダであり、埋めようが空けておこうが金は関係しないとわかっていることでも気がつくといっぱいにしてしまう。スッキリシンプルな生活に憧れつつもそれと反対のことをしてしまうのだからほとんど病気である。
これは増坊だけのごく特殊な症例ではないと思う。ある世代共通の感覚…。
友人の映画イラストレーター三留某女史も、同様な傾向が強くあって、実際、彼女の描くイラストはほとんど隙間なくぴっしりと絵や文字で埋め尽くされ一見まるで空間恐怖症のようである。和田誠のようにすっきり隙間だらけで描こうが原稿料は変わらないはずだろうに、どうしてそんなにいつも描き込むのか訊いてみたら彼女の返事は、「だって隙間が空いてるとモッタイナイじゃない」とのことだった。嗚呼!