増坊にとって大事な本
今日も疲れて酔っぱらっている。このまま倒れ込むように眠れれば良いのだが、このブログも含めやるべきことがあるのでそれもできない。今晩はつい調子に乗って晩飯時飲み過ぎた。メシなど食べなくても酔えばそれで十分で、何もかも忘れてこのまま寝たいところだが仕方なくパソコンに向かっている。
さて、昨日の続きのようなものだが、先日都内の古本屋の店先で、ある本をみつけた。筑摩書房が昭和30年代に出していた、現代日本文学全集の端本で、「文学的回想集」という。これは、このシリーズの最終巻であり、そもそも、個人的にもずっと探していたのだが長く手に入らなかったものだ。日本の文学全集の中では、質量ともこの筑摩書房版に勝るものはないというのが、今のような文学全集が失せた時代、文学好きの間では定説になっているが、その中でもこの一冊はなかなかみつからなく、他の端本はかなり出会う機会が多くとも、実はこれだけは未だ未読であった。それが購うことができて喜ばしい。
さて、本書の内容だが発刊された昭和33年の時点で、日本の文学について、明治初期の坪内逍遙のものから、戦後の正宗白鳥まで、文学史に残る主な回想記が収録されており、中でも前述した馬場孤蝶の『明治文壇人々』など、長く求めてきたものが読めて、畏友緑雨について回想した哀切極まりない章は、本書の白眉といえよう。その他、近年再評価高い田山花袋の『東京の三十年』と白鳥の『文壇五十年』も収められているし、ゆえに明治から戦後にかけての文学に関心を持つ者にとって必読のテキストである。
先にも書いたことだが、今ではこうした文学全集の端本でしかもはや読むことが不可能なものも多くあって、本書もそうした貴重な一冊となつてしまっている。おいおい本書から知り得た知識をお知らせすることもあると思うが、今回は中でも正宗白鳥の『文壇五十年』の末章について採録したい。これは、昭和29年の時点で早くも書かれたものだが、希代のニヒリスト白鳥の面目躍如といえる一節である。今読んでも同感する点が多くないだろうか。題して「敗戦でも変わらぬ文学、芸術――尽きぬ闘争興味、貫けるか戦争否定」から抜粋した。
何年か何十年か経ってから戦争の真相が文学の上に明らかに描かれると、重々しく考える評論家のタイプの人もあるが、ノド元過ぐれば熱さを忘れるで、時が経つと、あの時の印象も希薄になるだろう。どんな事があっても今後は戦争に加わらないと、あの時覚悟した人間精神も、それを貫くことは出来ないで、多数者は戦争について郷愁を感じているらしく、私にはいつも見えていた。私自身もそんな感じをすることがある。
それで、あのころの盛んな戦争否定専売の間にも、虫も殺さぬような気持ちになっている間にも、人は闘争興味は忘れないのである。相手を倒して自分が勝つということに本能的に興味を感ずる限りは、その興味の道は究極は戦争に達するのである。勝負ごとの極致は戦争である。相手の肉体を傷つけなくっても相手の心を傷つけるのだ。フェアプレーなんて、そらぞらしい言葉である。
――増坊は、実は白鳥はそんな好きな作家ではなかったが、これを読んで感心した。今のアジア諸国蔑視、嫌韓、反中、北敵の時代を思うとき、彼の言ってることはまさしく真実を突いて今を見据えているようである。威勢のいい安倍晋太郎幹事長がこの度の内閣改造で登場したが、まさに白鳥の言うが如く人はまた戦争へと向かうのであろう。白鳥は大昔に死んだ人だが、彼の言葉に耳を傾けるとき、今も昔も人の本質は何ら変わっていないことに思い知らされる。