『電車男』は本ではない
今日は二週にいっぺん、都心に映画を観に出る日で、飯田橋ギンレイで、スペイン語圏映画を2本、というより、2本とも出ているのは昨今人気のメキシコ人俳優ガエル・ガルシア・ベルナル君だから、彼の特集といってもよく、館内は若い女性が多く見られた。映画は、メキシコ映画『アマロ神父の罪』とスペイン映画『バッド・エデュケーション』。注目のアロモドバル監督の『バッド~』の方を期待していたのだが、前作に比べると、今回は自伝的要素が強いせいか、彼らしいヒネリはあるものの地味な、ある意味できれい事で終えたズルい映画だった。ガエル君、汚れ役に果敢にチャレンジだが、若き日のゲバラを演じた『モーターサイクル・
ダイアリーズ』の方が彼の資質に合っていたように思える。おっと映画の話ではなかった。ベストセラー本についてだ。
帰りの電車はちょうど6時台の下りで、通勤のサラリーマンが帰路につく時間帯だから、まず中央線は、東京駅からの始発にでも待って乗らない限り、途中の駅からでは絶対座れない。で、かなりぎゅう詰めの車内では、いつも立ちながら本を読んでいる人のそばへ行き、何を読んでいるのかそっと覗き込むようにしている。今日もやや中年の女性が何やら厚い単行本をカバーをかけて一心に読んでいる。
本の題名はすぐわかった。『電車男』だ。ネットの掲示板と同じ横組みで、そっくりそのまま送信者とその書いた内容が時間通りに印刷されている。電車男氏当人の書き込みより、Mr.名無しさんやら他の人の書いた分がやたら多い。車内でそれを読んでいる彼女と一緒に何駅か、数ページ目を通したけれど、ほとほど呆れてしまった。面白いとか面白くないとかの次元ではない。これはそっくりそのままパソコンの画面を打ち出したものだ。これは本なのか。綴じてあるものを本と呼ぶのならばたぶんこれも本なのだろう。しかし、著者は誰だ?エルメスなる女に恋した男なのか?それともこの掲示板に書き込んだ投稿者たちなのか。もし、その画面を自宅のプリンタで打ち出したとしたものならば、それは本ではないだろう。こんなものは、そのサイトを覗けば済むことではないのか。それを本にして売る。またそれを金を出して買う。この女はパソコンがないのか。それとももはやそのページは閉鎖されているのか。巷で今話題だからそのオリジナルを読もうと思ったのか。何駅かの間だったが、ついいろいろ次々疑問が湧いて考えてしまった。これは、その“通信の記録”でしかない。よっぽどマンガやドラマ化されているものの方が、物語に、つまりカタチになっていると思った。
近年、この手のネットからヒットした、つまりアクセス数の多いサイトをそっくりそのまま「本」にした本がかなりあるようだが、何故横書きでそっくりそのまま印刷するのか。別な媒体なのだから、別なフォーマットをそもそも使うべきではないのか。内容以前にそのことが気にかかる。あまりに安易すぎないか。それは綴じてあるというだけで筆者のような古い人間にはそもそも本であるとは認められない。
結論を言う。『電車男』は本ではない。単なる紙の無駄でしかない。紙がもったいない。