おまけ・文語文を超訳すると
というわけで、明治の操觚者・齋藤緑雨についてしばらくの間、稿を割いてきた。読んでいる人はいるかはともかく自分にとっては大いに勉強となった。また文語文というものに親しむ良い機会でもあった。さて、このブログで紹介した緑雨の遺した「警句」だが、果たして今の人には意味が伝わっただろうか。文語というモノに慣れていない人は理解不能だったかもと、今少々反省している。元の文にはどれも漢字の右側にルビがふってある。いわゆる読み方である。今でも原稿用紙には、必ず枡の右に細長い空白のスペースがついている。それはルビ、つまり読み方を書く欄なのだ。
「明治時代の原稿は作者自身が仮名を振った。文字を知るということは漢字にどれだけの仮名が振れるかということで、畢竟、奈如なると書いてつまり、どうなると《略》作者が仮名を振って読ませた――山本夏彦・『文語文』より――という。このブログでも、緑雨の文章を紹介するに際し、原文と同じく仮名を振って載せたいのだが、残念ながら増坊のパソコンソフトではそれができない。いや、そもそもブログでそうしたことができるのかそれ自体がわからない。だから、ルビがあれば多少意味がわかるところを、そうでないのならばきちと解説、翻訳しなければ書き手の不親切、自分勝手というものだろう。何しろ、こちらはルビ付きの文を読んだ上で稿を進めているのだから。
まず広く世に知られる、緑雨の遺した警句の中でもあまりに有名な言葉
◯按ずるに筆は一本也、箸は二本也。衆寡敵せずと知るべし。――だが、おわかりか。文語というのは、非常に感覚的なところがあり、それをそっくりそのまま現代文に置き換えることは難しい。それは外国語の翻訳に似ている。畢竟、だいたいの意味での超訳とならざるえない。あえてそれを承知で緑雨がこの世にいたら、それはヤボ也、と冷笑されるだろうが、訳してみると、
◯考えてみると、筆は一本しかないのに、メシを食うために必要な箸は二本である。一本が二本にかなうわけがない。ということはどう考えたって文章でメシを食うことなどできやしないのだ。という解釈になる。実は増坊もこの文の意味がよく理解できなかった。ながいこと悩んでいた。だも山本夏彦翁が好んで使う言い回し、衆寡敵せず、という語句を辞書で調べ理解してから意味がわかるようになった。そして自らも物書きでメシを食おうとした身としては実にこの警句、心にしみ入るように思えてきた。そうなんだよなあ、ペンは1本しかないのに、箸は2本必要なんだよなあ、1本のペンでメシを食っていけるようになるってことはしょせん難しいんだよなあ、と100年前に、緑雨が喝破したことが今日でも実に実感できてしまうのだ。
こんな調子で「解説」していくときりがないので以下、ともかくどんどん超訳していくことにしていこう。