高田渡が死んだ・後それにしても渡の老成ぶり、老人度はすごかった。彼を知らない人が見たらまさかそんなに若いとは思いもよらないだろう。死を報じた新聞によると、まだ56歳。でも、見た感じは軽く70はいっている“爺さん”だった。手元の資料によれば、1949年生まれだから、中川五郎と同じ年で、遠藤賢治司や加川良よりも2つ若い! だのに、おしゃれな中川五郎に比べると20歳ぐらい違って見えた。たしかに若いときから老け顔で、当時から若者っぽくはなかったが、この数十年の間にいったい何があったのだろうか。筆者が久しぶりに“認識”したときも最初は老人だと思ったのは無理のないことだろう。今は長寿社会だから80代だってもっと若々しい年寄りだっていくらでもいるはずだ。
人伝てに聞いた話だと、酒を飲み過ぎて体を壊しずっと入院すらしていたこともあるそうで、あの顔のシワはちょっとやそっとでできるものではない。横シワでなく深い縦のシワがいくつもできていた。最近のキース・リチャードや、晩年のチェット・ベイカーもそんなシワがあった。俗にドラッグに溺れた人に多く見られるシワだが、要するに渡のは、長年の酒が刻んだものだろう。
吉祥寺の南口の焼き鳥屋のカウンター席で、喫茶店で、路地裏で、それからは気がつけば渡とは何度もすれ違っていた。いせやの後ろの席で彼が飲んでいたこともある。やがて、昨年、映画『タカダワタル的』が話題なり、ETVなどでも特番が放送されたりと、また何故だか彼の周辺が騒がしくなり、再び高田渡に世間が注目し始め、昔のファンとしても嬉しくもあり、反面、何を今さらという複雑な気持ちもあったが、渡は、渡で絶対変わるはずないし、これからもずっと渡的に歌い続けていくだろうと思っていたのに、突然の訃報だった。
“アングラフォークの先駆け”“元祖四畳半フォークの祖”などと呼ばれた渡だったが、考えてみると彼から教わったものは多かった。ピート・シガーやウディ・ガスリーは元より、ラングストン・ヒューズや山之内貘など、詩の世界、また彼の仲間「武蔵野たんぽぽ団」の面々たちと、渡を通して自分は成長の糧をもらっていたのだと今改めて気がついた。こうして自分を作り上げた人たちがまた一人死んで、自分の中の一部も一緒に死んでいく。
最後に彼を観たのは、新宿でやった映画『タカダワタル的』のライブ付き上映の最終日だった。東京乾電池の面々と蛭子能収、中山ラビ、中川五郎らのステージの後に、トリに出てきた渡は、そうとう酔っぱらっていたが、何とか無事に2、3曲唄った。それが彼の歌う姿も含め生で見た最後だった。そのとき司会をした春風亭昇太がいみじくも言っていたことだが、「“志ん生”はいなくても僕らの世代には、まだ高田渡がいる」と絶賛した渡の絶妙な語りがもう二度と聞けないと思うと実に残念でならない。唄はレコードに残されている。ドキュメント映画も残された。でも生の渡にはもう二度と会えない。
彼は生涯、芸能人などではなく、普通の人だった。生活の中に“うた”があって、音楽があった。そして酒があり、それが彼の一生だった。
これからもきっと吉祥寺の南口に降りては、夕暮れ時にいせやのある路地で僕は渡の姿を無意識に追い求めるだろう。そして、あきらめては店に入り、井の頭公園を眺めながら高田渡のことを思って飲めない酒を飲むのだ。
今まで恥ずかしくて面と向かって言ったことなどなかったけれど、貴方に会えて良かった。本当にありがとうございました。お疲れさまでした。あの世でも好きな酒をしこたま飲んでボヤキながら唄を歌い続けてください。合掌。