希代の風雲児山本実彦・2
第二次大戦後の焼け野原の中でも人々は活字を求め、当時は本と名のつくものならばどんなものでも出せば飛ぶように売れた、それだけ誰もが本に飢えていた、とは老父から聞いたことがある。関東大震災。人為か自然かの差はあっても大災害のあとは、家も家財も当然本も焼けてしまったので、誰もが活字に飢えていた。だか、本はその頃、一冊10円。安くても5、6円はしたから焼け出され復興半ばの庶民にそんな金は出せなかった。そこに目をつけたのが円本である。こんな時勢だから安い全集を出したらどうか、という社員の提案を受けて実彦が下したのが円本発売だった。むろん、改造社自体も震災で大きな損失を受けている。実彦は、小売りと取り次ぎをしていた神田の東京堂(今もある書店)に掛け合い、無担保で資金を借り全集出版にこぎつけた。そして、円本は当たりに当たって25万人の予約があったという。大正15年12月第一回配本「尾崎紅葉集」が出て近代史に残る出版大革命円本時代の幕開けとなる。その後、他社が追随参入したことは既に書いたが、改造社も順次、他の円本シリーズ、経済学全集、日本地理体系、日本短歌全集、マルクス・エンゲルス全集などを出し膨大な利益を得た。だが…。
以下駆け足で時間を進める。政治家への夢を忘れがたかった実彦は、この資金を元に昭和5年第17回総選挙に郷里鹿児島より立候補し、当選する。だが、満州事変を挟み、次の昭和7年の選挙では再選ならず円本で得た儲けはほとんど消えてしまう。さらに時の政府は戦争遂行のため言論弾圧を強化し、雑誌「改造」も度重なる発禁の末、日支事変勃発前後から、大陸政策に迎合し雑誌「大陸」などを発刊、軍部に協力していく。そして「横浜事件」を経て、ついに昭和19年、実彦は、「中央公論」島中雄作と共に情報局から呼び出され改造社の「廃業」を申し渡され、改造社は解散することになってしまうのである。