希代の風雲児・山本実彦・1
改造社を興した山本実彦は、鹿児島県川内市の貧乏な鍛冶屋を生業とする家で明治18年に生まれた。酒飲みの父の為に山本家は零落、苦学し沖縄のコザで代用教員として1年働いた後、徴兵検査のために鹿児島に戻り上京。同郷出身の有力政治家の支援を受け日大を卒業しやまと新聞の記者となる。新聞の特派員としてロンドンに1年余り滞在、ヨーロッパ、米国を経て帰国した。こうして国際感覚、ジャーナリストとしての見識を養い彼は、いつしか政治家を志すようになり、帰国後、大正2年、若干29歳で東京市会議員となった。そして東京毎日新聞社という新聞社を買収し社長となる。4年間経営の任にあたったがその間、第12回総選挙に地元から立候補し、当選確実と目されながらも収賄容疑で召還され断念している。
彼が改造社という出版社を興すのは、この新聞社を売って、得た金でシベリア出兵で国内外が騒然とする中、現地へ視察へ赴き、鉱山会社から調査謝礼として6万円を手にしたからだ。得た金の約半分は品川に豪邸を買って消えたものの、残った金で、友人たちと相談の末、総合雑誌を出すことにした。あくまでも彼自身は政界進出の夢は消えていなかったが。
大正8年、雑誌「改造」創刊号が発行され、3号目までは返品の山だったが、編集方針を転換し、当時最新の思想であった、社会主義や労働問題などを取り上げ、起死回生、突然売り上げを伸ばしやがて中央公論と並ぶ、進歩的左翼主義的論壇誌として大正から昭和初期の時代を牽引していくことになる。だが、当然そうした時局に合わない内容は、当局の忌諱にふれ発禁を命ぜられ、その度に浮沈の瀬戸際にまま立たされることになるが、その度にベストセラー本『死線を越えて――加賀豊彦』、『女工哀史――細井和喜蔵』、『放浪記――林芙美子』らが出て経営を救っている。
実彦は、『死線を越えて』が100万部売れたのでその儲けで、英国の哲学者、バートランド・ラッセルを日本に招き、講演させた。次いで彼の紹介でアインシュタインを招聘したのだ。大正11年ドイツにいたアインシュタインは日本郵船貨客船で日本へ向かい、船中でノーベル物理学賞受賞を知った。そして来日。慶應義塾大学講堂を皮切りに日本の所要都市を回り、各地で講演を行ったが、どこも大歓迎、超満員で会場は立錐の余地もなかったという。彼は42日間日本に滞在し、当時の日本人に忘れがたい大きな印象を残した。以降も、改造社は、産児制限論者のサンガー夫人、作家バーナード・ショウらを招き、「改造」誌上でも海外の知識人へ直接寄稿を依頼するなど、当時最先端の科学・文化の紹介に多大な貢献をしている。だが実彦と改造社も大正12年、関東大震災という大災害に襲われるのだ。そして、焼跡の中から円本が誕生するのである。