焦りと苛立ちの1年だった。
自分にはもう時間がない。このところそのことをよく考える。同世代や年下の友人の死に遭うことが多くなったせいもあるが、50を過ぎるとともかく1年があっという間に過ぎてしまい、毎年毎年、年の暮れには反省し、来年こそは、と固く誓うものの何一つちゃんとしたことは果たせずに、全く同じことの繰り返しで、一昨年も去年もそして今年もそうならば、来年もまた同じことの繰り返しであり、生きているだけで丸儲け、良しとできなくもないが、それではあまりに情けない。何故なら今のままで何もカタチにできずに死んでしまうならいったい何のためにこの世に生を受けたのか自分でさえ納得も満足もできやしない。単に消費するだけで死んでしまうならばその人生は無価値だと断じてもよい。何しろ子供もいない生殖さえしていないのである。
そしてこのまま平均的に生きられればあと20年ぐらい生きられるはずだが、それは何も保証もないし、今のままではより生活は苦しくなり肉体は衰え何一つ明るい展望はそこにない。先のことはわからないし、その20年どころか数年先には野垂れ死にしているかもしれない。だとしたら、こんな自分でもできることをしてそれをカタチにして残せたらと思うようになってきた。
でも自分ができることって何かと問われると、返答に窮してしまうし、何の特技も才能も金も力もない初老の男ができることなんて実は何もないことに思い至る。それでもだからこそ、何かしたいと思うし、それは自分のためではなく、社会や困っている人のために何か少しでも役立つことをしたいと願う。それは自分のことだけを考えて身勝手かつ自堕落に生きてきた者の反省でもあるし、もしほんの少し余裕があって、今困窮している人や悩み苦しんでいる人がいるならば、手を差しのべたいと思うからだ。自分は決して裕福でもなく定収もなく下層社会に生きているわけだが、幸いにして親の持ち家があり今は衣食住の心配はない。生きていく最低限の部分だけは何とかなるならば、人はもっと人のために何かすべきではないのか。
実は人一倍欲望は強いほうだから今だってあれもこれも欲しいものは山ほどある。しかし、物はキリがないし、場所も時間もない。そして金のためにあくせく働くのは何より嫌いときている。だから物はもういらないし、消費もでるだけ控えたい。そしてそんなこと、昔のギャグに倣えば、金も要らなきゃ女もいらない。私しゃもう少し背が欲しい、の「背」ではなく、ほしいものより、したいことがある。それこそが他者との関わりであり、社会との関係性をどうもっと築いていけるかなのだ。
その手段というか、キーワードは本でも文学でも映画でも何だってかまわないのだが、今の自分は、音楽を通して人と社会とどう関わりあえ、何ができるかということだ。そこをもっと真剣に追求して結果としてカタチに残せたらと思うようになった。しかし、今年は秋口からいろいろあって滞ってしまい、3ヶ月間何一つできなかった。そして家で一人焦り苛立ちただただ屈託を抱えていた。そしてようやく今年も終わる頃になって気を取り直したという次第だ。