日本シンガーソングライター列伝・1
先日のブログに、ちょっとだけ
朝野由彦のことを書いたら、この何回かコメント欄に朝野さんについてのコメントがあった。といってもおそらく大方の読者の方々には彼のことはご存知ないであろう。しかし自分にとって、そして日本のフォーク史においても忘れ難き重要なシンガーである。良い曲がいっぱいあり、70年代の春一番ではすごく人気があった人だ。現在は音楽からも離れてしまった人ではあるが、僭越ながら自分が知っていることを書き留めておきたいと思う。
先にも書いたが、そんな風に、70年代、10代の自分は、中学生の頃、深夜放送でまず岡林やRC、拓郎を知り、長じて実際にぐゎらん堂で、渡やシバ、友部正人らを生で見聴きし、やがては、関西フォークの本場、大阪天王寺で催されていた春一番コンサートにまで出向くようになる程日本のフォークソングというものに魅せられたのだった。が、どうしたことか、学校を出て社会に入り、家を出る頃になると、時代は80年代、音楽は小林克也のベストヒットUSAを毎週録画するような洋楽ファンとなってしまったことと、FMとかはたまに聴くことはあっても深夜放送も含めてフォークソングというものからすっかり離れてしまい、以降約20年近くもその世界とは縁がなくなってしまっていた。
今にして思うと、それはJ・レノンが殺されて、高田渡が死ぬまでの期間にちょうど当てはまる。そして直後に渡の送別会のようなコンサートが中川五郎さんら盟友たちが企画し、それに友人に誘われて偶然的に行ってその場で音楽の力に深く感動し、再び焼けポックリに火がついたが如く、眠っていたフォーソング魂が目覚めてしまい、昔のような熱烈的フォークファンとなってしまった。それ以降のことは拙ブログを辿って読んでくれれば一部始終嘘偽りなく書いているから繰り返さない。
再び、現場に戻ってきて気がついたことは、相も変わらず、福岡風太は大阪で場所は変えども春一番は復活させ続けていたし、渡はいなくとも、シバも友部も加川良もいとうたかおも大塚まさじも皆だいぶ歳はとったが元気で活動を続けていた。しかし、昔好きだった人で、その20年間の間に、姿を消したというか、名前を聞かなくなった人たちも当然いて、その後の消息が気にかかった。それは、誰かといえば、筆頭はマイベストアルバムの筆頭に位置する「チャーリーフロイド」の田中研二であり、若林純夫であり、林ヒロシであり、朝比奈逸人であり、ダッチャであり、中塚正人であり、そして朝野由彦であった。
上記に名を挙げた方々は幸いにして、その後、消息はつかめ、中塚正人さんのように懇意にお付き合いさせて頂ける関係になった人もいるし、不幸にも渡氏の後を追うように病気で急死された若林さんはご遺族の方から拙ブログを通して連絡を頂いた。また、田中研二は、現在はオーストラリアで活躍中であることは、雑誌雲遊天下誌の連載記事で確認できたし、彼と親しい古川豪さんからも詳しく訊くことができた。その後実際にライブで観られた方もいれば、風の便りに体調を崩して音楽から離れているという話が耳に入ってきた人もいる。しかし、その中でもなかなか情報が入らず、行方知れずだった人こそが朝野さんで、70年代後半の春一番では圧倒的な存在感を示し人気があった人だけに消えてしまったことが不思議でならなかった。