何はともあれ岩波文庫
山本夏彦翁が生前口が酸っぱくなるほど説いていたことだが、難解な哲学用語を用いて日本語をダメにしたのは、岩波書店と岩波文庫だそうで、まあたしかにその側面も大いにあると思うものの、岩波文庫の価値はやはり揺るがないものがあるだろう。
今手元にある、阿部能成著『岩波茂雄伝』(昭和32年・岩波書店)によると、昭和初頭の不況の嵐の中、改造社は、円本『現代日本文学全集』で大当てたので、岩波も対抗して世界文学全集を出そうとしたが、新潮社に『世界文学全集』で先を越され、円本ブームに乗り遅れてしまった。そこで、予約によって読者を束縛することなく、買い手の自由な選択によって買える廉価版として、茂雄が学生時代に親しんでいたドイツのレクラム文庫に倣って、『岩波文庫』の発刊を思い立った、とある。
そして、昭和2年、『新訓万葉集上下巻』『古事記』『こころ』『五重塔』『ソクラテスの弁明』『戦争と平和第1巻』など全部で31点をいっぺんに出し、これが今日に至るボーダイな岩波文庫の萌芽となるわけだ。売値は当初、100ページ(星一つ)二十銭で、これは、一万冊売れてわずかに200円の利益が上がる程度でまさしく薄利多売の商法だった。ちなみに、露伴『五重塔』が星一つ。漱石『こころ』は星二つ。
しかし、岩波文庫は社会の非常な歓迎を受け、、その成功に続いて宿敵・改造社も改造文庫を昭和4年に発刊。6年に春陽堂文庫、8年に新潮文庫が、と他社も次々と参入し円本の次に文庫本ブームを巻き起こしていく。
増坊が物心ついて、文庫など手に取り始めた頃は岩波文庫はまだ、戦前と同じく星の数で値段が決まる定額方式で、本体のみの茶色っぽい表紙の上に極めて破れやすいパラフィン紙がかかっていたと記憶するが、それがいつの間にかきちんとソフトカバーに取って代わり、値段も定額星印制ではなくなりそれなりに現代風に、スマートになってしまった。しかし昔の、あのヤケてぼろぼろになったパラフィン紙装の頃のが懐かしいと感慨を覚える吾人もいるだろう。みかけは悪くても値段は安い。そして中身は価値がある。 これが岩波文庫のイメージだった。中沢新一の弁ではないが、岩波文庫は知の宝庫なのはまぎれもない事実であり、総刊行点数5200冊をゆうに超えるとは、もはや人類の遺産と言っても良いくらいなのだから。