中川昭一氏を哀れむ
人の死、つまり他者の死とは、常に何らかの衝撃や波紋のようなものを心に及ばすもので、それが見ず知らずの人ならともかく、他人でもある程度認識し、イメージできる人ならば、その死からいろいろな思いがわいてくる。たとえどんなに嫌いな憎しみさえあった人でもその死に対しては、厳粛な気持ち、哀悼に近いものが沸いてくる。
自民党の中川元大臣が急死と報道された。自分とは全く接点もなく、何ら関心がないどころか思想信条において180度異なる考えを持ち、敵側といってよいほどの赤の他人ではあるが、この数日彼のことをずっと考えている。そして可哀相な人だという思いが日増しに強くなってきている。
その急死の報を聞いてまず思ったのは、これは自殺に違いないということだった。というのは、彼の父、一郎氏が自殺していて、彼にはその影がずっと付きまとっているのではと以前から感じていたからだ。世界的に知られてしまった彼のアルコール中毒もおそらく根本原因には父の自殺が影響していたのではないか。
こんなことを書くと、遺伝子的にそういう家系はそういう傾向があると説いているとおもわれるかもしれない。自分は医者や専門家ではないのでわからないものの、まずそんなことは遺伝はしないと考えている。ただ、身近な人、特に家族が自殺した場合、残された者はいろんな意味で深く傷つき、生涯立ち直れない程のトラウマを抱えていくことが多い。友人知人にも何人かそういう人を知っていて、家族を突然自殺で失ってその苦しみを長く引きずっていることを見ているのでこの死については特に問題としたい。
当人の自殺に至る経緯や原因はともかく、この自己殺人とも呼べる死が大問題なのは、死んだ当人はもうこの世にはいないから何の責任なくとも、残された者、家族、友人知人たちにまで後々深い哀しみと悔いの念を残してしまうことだ。家族の場合、世間的な目も辛いだろうが、それ以前に自殺を防げなかったことの後悔、ましてそれが親だった場合、残された子供たちの抱える苦しみは筆舌に尽くしがたいと思える。家族が自殺した場合、残された者は生涯その死を肯定できないのではないか。そこに責任などなくても折に触れて自分を責め続けている人も知っている。そしてアルコールやドラッグに溺れる人もまた多いときく。またそこから新たな死が生まれることもある。中川氏の死もその流れにあったのではないか。
ゆえに自殺は最低最悪の死であり、人は絶対に選んではならないものだ。しかし、今日の社会では、過労死寸前まで働かされたり、パワーハラスメントでノイローゼになったり、いじめや差別など会社や学校で追い詰められ、行き詰まり結果自殺に至るケースがほとんどであろうから、人はどんなに辛くともがんばって生きねばらない、自殺はしてはならないという建前はいくら言っても意味を持たないし効果はない。
自殺を防ぐためには、個人の努力や家庭内だけでは限界がある。自殺を誘引する根本原因を取り除かない限り、人は今の苦しみから逃れようと発作的に、ときに計画的に自殺を図る。それしか選択肢がないと思ってのことだ。ならば実は自殺こそ、個人の問題ではなく社会全体の病理であり、格差と差別、貧困の資本主義社会がそもそもの原因であり、先だって亀井静香がいみじくも言ったように、家庭内殺人も含めて、すべて大企業の責任がそこに問われている。そして政治の責任も大きい。自公政権の10年間で自殺者はうなぎ上りに増え続け数を更新してきたことを国民は忘れてはならない。痛みに耐えて構造改革して自殺者が増えるのでは愚の骨頂ではないか。
個人でできることなんてたかが知れている。地域社会も含めて国レベルで、自殺や介護殺人など起きないようなシステムと人の確かな繋がりを構築していかない限り、この国に未来はない。鳩山首相が真に友愛という文言を大事にするならば、愛する家族を失わないですむよう友愛共同社会を実現してほしい。
中川昭一氏のことを東大出で大企業に勤め政治家としても苦労知らずで順風満帆だったと書いている記事もあったが、彼の脳裏には常にそもそも政治家になるきっかけとなった父の自殺が暗い影を落としていたように思えてならない。選挙にも落ちて鬱病からの不眠症の薬にアルコール、そして不慮の死。ようやく事故死、病死と報じられたが、これもまた望まないにせよ自殺のようなものではないのか。ほぼ同世代の者として哀れでならない。
他者の突然の死は全く関係ない人をも十分憂鬱にさせている。こんな死に方はあんまりではないか。