文学全集とはそもそも何であるか
さて、百科事典という本の次は文学全集という本のセットである。最近でも三島とかの、ある作家や研究者の著作を書簡までも網羅した個人全集は出版されているし、そうした作家はコアなファンがいることもあって、最初から多くは刷らないものの順調に売れているようだ。全集とは字義の通りだとするならば、こうした 全てを集めたもの のはずである。だが、「日本文学全集」と銘打った場合、そもそもそれは最初から実現不可能なものであるのは当然で、あくまでも言葉のアヤで、実体は選集というより収録作家のアンソロジーのようなものでしかない。それはそれで仕方のないことだ。
手元に、筑摩書房が1970年代半ばに出した、「筑摩現代文学大系」の端本があり、その帙の裏面に、第1巻=坪内逍遙・二葉亭・透谷から、最終巻=竹西寛子・高橋たか子・富岡多恵子・津島佑子の女流4人集までの全97巻すべての収録作家名が載っている。圧巻ではある。何しろ全部で97巻、百冊近い。ここまで来たらどうして100冊にしなかったのか。それよりも現代文学大系を標榜しているにしては、戦後の作家たちが少ないのに目が行く。田村泰次郎や野間宏、武田泰淳、三島由紀夫ら戦後華々しく活躍を始めた作家たちが登場するのか゛60巻を過ぎたあたりからだし、第3の新人たちでさえ、70巻の半ばあたりからで、第86巻で、開高健・大江健三郎ががペアで、90巻を過ぎてようやく、野坂昭如、五木寛之、井上ひさしが3人で一冊と登場してくる。以下当時の売れっ子たちが補足のように一冊に3人、4人と括られて、97巻目となりこの全集は終わりとなる。
オカシイと思ったが、要するにこの全集が発案されたのが1975年だとすると、戦後30年しかたっていなく、ここで言うところの「現代」というのは明治からこのときまでの100年ちょっとがすべて含まれ、だから戦前の作家がつい幅を利かせることになってしまうわけだ。まあ、考えようによっては「日本文学全集」と名乗ってしまえば源氏物語や方丈記、徒然草とかまでも網羅しなくてはならないわけで、文学全集の前に、せめて、「現代」、「近代」「戦後文学」「明治・大正」とか括りをつけないとならなかったのである。
しかし、この全集には致命的不備がある。松本清張はかろうじて収録されているけど、推理小説や幻想小説の作家たち、そして何よりも筒井康隆をはじめとするSF作家たちが完全に黙殺されている。まあ、この時代まだまだ日本のSF小説などは極めて低く扱われていたから仕方ないかもしれないが、せめて、筒井と小松左京、星新一で一冊設けるべきであったと思う。結局このセレクションからわかることは、明治からこのときまで連綿と続く文学、つまり純文学の基準に乗っ取って企画選択されたということだろう。この時代だから出来たことだ。
★筑摩現代文学大系 第50巻 石川達三集
今日の山崎豊子などの社会派エンターティメントの鼻祖と呼べるのがこの石川達三だ。社会的な問題をテーマにしても決してプロレタリア文学に陥ることなく面白一気に読ませてしまう。また、小説のタイトルの付け方のうまさも彼の特徴で、次々と流行語にさえなった。この系譜は次世代の有吉佐和子、そして山崎豊子に受け継がれている。石川達三は今読んでも圧倒的にオモシロイ。