長雨と日照不足で天候不順の夏に
何か慌しかった7月ももう終わる。今月は自分のことはともかく、人に請われて駆り出されていろいろ出かけたり手伝うことが多かった。残り半年分の最初の月として、やや消化不良の感がある。大工とは連絡取っているけれど、家の工事もまだ始められないし、季節の移り変わりの早さに焦るような気持ちもある。そしてすぐ8月である。
例年、夏の間は、その暑さですべてが停滞してしまう時期なのだが、幸い今年は天候不順で、真夏日、猛暑日が少ないので自分としては大いに助かっている。老人、老動物を抱える身としては、ともかく無事に夏を乗り切れるかどうかが最大の課題であり、この夏さえ過ぎればパラダイスが来るとは言えないものの、新居もできるだろうし、新しい生活が始まると今は思っている。まあ、冬には家のメドも立っているとしての話だが。このままだと冬には冬の心配も当然ある。
それにしても次々と死んでしまう人ばかりで、気持ちが滅入る。思うに、男は50代、女は40代で一度、人生に危機的状況が訪れるのではないか。若いときは病気など普通はしない人でも、中年になり、体質や環境が変わってくるとそれまでのツケが出てきて、何かしら体調不良や病気になるのだと思う。
程度の度合いもあるだろうが、うまく何とかその病気のときを克服して、そこを無事乗り切れれば、いわゆる平均寿命の歳までは生きられるような気がする。昨年死んだ、学生時代からの自分の好きだった女も40代半ば過ぎだったし、先だって死んだ清志郎をはじめとして、男たちは皆50代だった。
そして今自分がその年代に入って、果たしてうまくこの50代を乗り切れるかと考えてもしまうが、無理はしないし、できないから大丈夫だと思う反面、やはりそれなりに体調管理には気をつけねばと自戒している。しかし、人はいずれ必ず死ぬものだとすれば、大人しく何もしないでじっとして歳だけとっても意味ないわけで、気持ちとしてはもうすぐ死ぬ覚悟でうんと無理しようと思っている。
人の価値は、長く生きたから偉いのではなく、短くとも何をしたかだと思う。実のところ自分はほとんど無為に、50年間これまでの人生を無駄に使ってしまった。もちろんいくらかの内面的蓄積はある。それは金にならない財産であるが、これまではそれを何一つカタチにしてこなかった。そして今、友人知人がばったばた死ぬような年代になってようやくはたと気づいた。次?は自分の番かもしれないと。
今願うのは、生きている間に自分ができることをして、それをカタチにして残したい。本当は、自らの「うた」を残したいと思うが、非才な我が身ではそれはかなわない。ならば、好きな人たちのこと、フォークシンガーの業績を何らかの形で記すなり、録音するなりして遺しておきたい。その為にはうんと無理をしよう。富士登山だってかなり無理だとわかっているが、すべてが生きている間だけのことならば来年はあるかわからない。ならばそのきっかけを自分は無駄にしない。
自分ができることはたかがしれている。ならば人に誘われ、人と共にすることは時間的、体力的にかなり難しくともやらねばならない。それが人生であり、生きているということなのだ。