もはやインディーズの器に収まらない
人生を半世紀以上生きていると、当然様々な多くの人と出会う。有名無名、メジャーマイナーという区分けは出来るが、自分にはそんなことは一切関係ない。どう自分と関わったか、今後ともどう関係を続けていけるかだけが問題であり、損得以前に互いの相性がまず重要だし、偶然性も含めた縁がまずそこに存在しているように思える。こちらがその人に好意を持ち、もっと深くお付き合いを願っても反応はなく、一度会ったきりで終わってしまう関係もあれば、まるで誰かに仕組まれ導かれているかのように偶然の出会いが重なり後に必然だったと思えるほど親しくなることもままある。人間関係というのは不思議なもので、自らの意思とは関係ないところで成立していくものだと思う。
そして沢山のかつて会った人たちを思うとき、人にはメジャーな人とマイナーな人が確かにいると気がつく。それは人間性とか個人の資質でもなくもちろんのこと良い悪いということとは全く関係ない。世に出る人、有名になる人と無名のまま市井の中でつつましく生きていく人とがいる。そこには、まず当人の志向性があるはずだし、運や才能のようなものも関係しているのだろう。しかし、どうしてこんなに素晴らしい資質があるのに、この人は売れないのだろうかと、もっと世に知られて良いはずなのにと歯がゆく思う人がいるように、大した才能も何一つないのに何でこんなに売れたのかと首を傾げてしまうような人も多くいる。「うた」がヒットするのと同じごとく、良いうただから売れた、悪いから売れないなんて単純な図式で割り切れないように、人の有名無名も何か別なところで定まっていくのではないか。それは、持って生まれた星なのかもしれない。
さて、前置きが長くなったが、我らの岡大介である。この「我らの」と頭につけて紹介するのは、あの国民的歌手藤原義江が“我らのテナー”と呼ばれて愛されたことに基づいてあえてそう呼ぶ。つまりそれほどの存在に彼はなりえると思うからだ。現在の彼はインディーズ出身の東京中央線沿線の人でしかないが、この浅草木馬亭独演会を機に、間違いなく全国規模のメジャーな存在になっていく。何故なら彼には豊かな才能と若さと何よりもビッグな存在になりたいという熱い思いがあるからだ。天性の明るさとスター性も兼ね備えている。そして最後はうたに対する志だ。知る限り岡大介ほどこの全てを満たした歌い手は他にどこにもいない。
URC を興した秦政明は、尻石友也と出会い衝撃を受け、彼を自宅に住まわせてマネージメントとプロデュースを受け持ち彼を世に送り出した。そしてそこから今日の日本の若者音楽、J・ポップに至る道が生まれた。自分にとっての岡大介はその故事を思い起こす出会いであった。断言する、我らの岡大介はそれほどの才能なのである。
我々は今その伝説が生まれる瞬間に立ち会っている。まだ間に合う、いざ浅草へ、今の岡大介を目に耳に焼き付けろ!