自分がお爺さんになっても
例えば学校の先生とか、会社勤めなどをしていたなら、自分より年下の人たち、それは生徒や学生、部下たち――とふれ合うことも多いのだろうが、自由業というのか、フリーで自ら何やらあれこれやっていると、どうしても付き合うのは同世代中心となる。まして、ネットで商売などやっていようものなら、お客はともかく、人付き合いなどほとんどなく、結局学生時代からの同年代の古い友達しかいなくなる。実に淋しく情けなくも思うが仕方ないことだ。人と言うのは、何故か同世代の友人を求めるもののようで。つまり同時代を生きてきた体験的共有感が人と人を結びつけるのだろう。
ただ、幸いなことに、このところ音楽の関係では、ちょうど10歳近く年上の方たちとお付き合いする機会が増えて、現在還暦前後の人たちといろいろお話することも多くなった。友人というほどの関係までは行かなくとも、そうした年代の方のお話を伺えるのはとても興味深く有難いことだとつくづく思う。
彼らの多くはフォークシンガーであったり、その関係にある人たちなのだが、そうした戦後生まれの、昭和20年代前半に生まれた団塊の世代の人たちと、増坊のような昭和30年代前半生まれの世代とは約10歳年が違い、こちらが十代半ばの頃、深夜放送でファンになり夢中になって聴いていた彼らが、その頃は二十代半ばであって活躍中で、その10年間は決して埋まらない。
しかし、半世紀も生きてくると、その年の差は昔ほど全然大きくはなく、子供の頃、すごく大人のお兄さんだった彼らも、今では単にしょぼいおっさんであり、見かけも含めてこちとらとほとんど差はなくなっている。中川五郎さんのように若作りな人だと、同世代にしか見えない人もいる。
考えてみると10代の1~2歳の差はすごく大きく絶対的な距離があるが、社会に出ると、2~3歳の年の差でも同期であったりもするし、やがて年上の人とも対等、もしくは下位に仕事の関係では応対することも多々起こる。しかし、なかなか年の差があると深い友人関係にはなれないように思う。
ただ、もはやこの歳になると、10歳の年の差はほとんど意味がなくなってきており、昔は畏れ多くて口きくこともできなかった人でも、案外気楽に話したりもできるし、関係の距離はだいぶ埋まってきたとこのところよく感じる。もちろん、昔抱いた憧れや尊敬の気持ちは失ってはならないと思うが、そうしたかつてのヒーローたちとお近づきになれただけでもこちらも年とった甲斐があったというわけだ。
友達になれはしなくとも、昔憧れて、好きだった人たちが見かけは老いたとしても元気で活躍しているのを目にしたりするのはとても嬉しいし大いに励まされる。例えば、あがた森魚であるし、鈴木翁二であり、早川義夫であって、有山じゅんじである。古川豪やながいよう、小坂忠さんも加えてもいい。そうした約10歳年上の、還暦前後の元気でいかした“老人”たちを見ると、自分も10年先にはああなりたいと思うし、歳をとるのも決して悪くはないと勇気づけられた。願わくば彼らのように生きたいと思っている。つまり下の者が憧れる「見本」や手本となるような老人になりたいと。