「顔」の見えないコンサートが多すぎる
疲れが溜まって、今日はもう動くことも起きていることもできない。手短に最近考えていることなどをざっと書いて少しでも早く長く寝たい。
ライブなどでこのところ遠くまで出かけることが多く、一昨日は家の壊しで、東側の屋根に乗っかっていたアルミ製のベランダを分解して撤去した。そして昨日も吉祥寺でシールズレコード十周年のライブであった。疲れが溜まってもうへろへろでその記念ライブは今晩もあり、今頃はアーリーが出ているかと思うが、今晩も行っていたらたぶん睡眠不足と疲労のあまりきっと倒れてしまうだろう。
先に自分がしでかした「事故」以来、もうどんなことでも起こることはすべて受け入れようと決意した。だから人から頼まれたことや誘われたこと、受けたメールの返事も含めて、自分に起こることはすべてOKとしてできるだけ早く必ず“返していく”ことにしている。さらに、自分のしたいこと、ほしいものなども時間的金銭的に可能な限り、それさえもそのまま受け入れていくことにした。何しろ人の命は短く、いつ何が起こるか誰にもわからないのだから。
しかし、この生き方はかなり体力的に辛い。50を過ぎた身には移動や人と会って話したり呑むことだってすぐに疲労となってしまう。あれもこれもできないが、あれもこれもしなくてはならない。今月もどうしても外せない自分も観たいし人間関係的にも重要なライブや会合がまだいくつも予定されている。一番は京都から来てくれる古川豪さんの独演会であり、疲れと人との付き合いをどこかでうまく調節してやっていかないとやがてすべてがダメになってしまう。
さて、このところライブに行って考えることで、自分だけかもしれないが、今日のコンサートのあり方について不思議に感じることがある。
昨今では、コンサートは大小を問わず、まずミュージシャンが出てきて、語りも含めて進行役も自ら兼ねて、最初から最後までその人、そのグループのみで演じられるのが普通であろう。外国でもそうなのか知らないが、知る限り、昔はコンサートでは、必ず司会というのか、進行役、今ならMCのような人が存在して、歌い手なり演奏者はその本来の役割だけ担当すれば良かった。
外タレのライブなどの場合、昔の観客は英語もわからないし情報も乏しいから、間に立ってE・H・エリックのような司会者が袖に立って曲目までいちいち紹介していたことを思い出す。それがいつしか、外人ミュージシャンでも開演してからは一切出ている彼ら以外何の説明も解説もなく、終わって灯りがついて、終了のアナウンスが流れるだけだ。それは今では当たり前だが果たして良いことか。今のコンサートはあまりにも出演者、出るアートチストに依存しすぎていると思える。
このところ、故HONJIさんの追悼ライブ、それに昨日のシールズレコード十周年記念ライブに行って思ったことだが、同じ会場だったせいもあるが、どうにもライブの進行が伝わらず観客としては大いに困惑してしまった。
昨晩のライブだって、5人のアーチストが各30分ごと演奏し、結局おおよそ二時間半で終了となったのだが、まあ、その程度の長さなら途中に休憩など挟まなくてもぎりぎり大丈夫かとも思うが、だとしたらどうして今日は休憩はありません、前もってしっかりトイレに行っておいてください、トイレは二階です、終わるのは○○時頃の予定です、とあらかじめ開演前に観客に知らせることができないのだろうか。
出演者もだが、観客も皆年老いてきて、トイレが近くなっているはずなのに、そうした気遣い、心遣いが全然ないことが不思議でならない。アーチストのチェンジの時間やセッティングの間にそっと席を立ち慌てて戻るよりきちんと15分程度時間をとって休憩としたほうがよほど安心してライブを楽しめるはずだ。
また、個人のアーチストのライブならともかくも、ある人の追悼ライブなり記念ライブならば、もう少し企画者、主催者が前面に登場して、その趣旨を述べるべきではないかと考える。
例えば、昨日のシールズならば、そこからアルバムを出しているアーチストだけに進行も何も任せるのではなく、開演前か最後にでもきちんと主宰の秋山氏から何らかの挨拶なり、今後とも何卒ご支援お願いしますというような支えてきた観客に謝辞があってしかるべきだと自分は考えるのであるが。
あちこちの様々なライブを観て気がつくのは、客が入っても20名で満席になるような小さいライブ居酒屋ならマスターなり、主催者の顔も見え、当日の進行予定もきちんと伝わってくるのだが、スター・パインズクラスのライブハウスとなると、一番タチが悪い。主催者の顔もその企画の意図も全然伝わらず、当日の進行さえも示されず、すべては出演アーチストに丸投げされている。岡大介のように気が回る、クレバーな唄い手なら全体の進行を意識して、休憩のあるなし等コンサートの時間割をきちんと最初にまず説明してくれるが、口の重い、自らのステージのことしか頭にないアーチストでは、何も語らないから見ている側は何か居心地が悪くトイレのこともあってなかなか演奏に集中できないのである。そう、誰もが岡林やさだまさしのように饒舌な語りなどできるはずもないのであるから。結局こうした気遣いのなさがもう一つ日本のライブ状況が伸びない悪要因となっているのではないか。人は辛い思いをしたり居心地が悪いところには二度と足を運ばないのである。
多くのアーチストが順次出演するようなコンサートの場合、やはり福岡風太や阿部ちゃんのようなMCが必要であり、できればそれが企画者であるほうがさらに見ている側にとってはわかりやすいと考えた。演者と企画者双方の意思が合致しそれが伝わってくるようなコンサートが最良だが、残念ながらなかなか観ることは難しい。大阪の春一番的なものに、来年の渡生誕会はできるだろうか。こんなことを思うのは自分だけなのだろうか。