秦政明の功罪・中
さて、フォークルの「ヨッパライ」、シューベルツの「風」などの大ヒットで潤沢な資金を得、また高石、岡林という集客力のある二大看板スターを擁し順風満帆にスタートしたように思えたURCだが、わずか約10年ほどしか続かなかったのはいったいそこにどんな問題があったからなのだろうか。
当事者でもないし事態を実際に知っているわけではないものが迂闊には書けないが、推測するに、一つに秦政明という人間の資質が大きく関係しているように思える。
彼自身はURC を考案し、旧来の体制側と抗うように、“日本のフォークソング”を自らの手でうまく商業ペースに乗せたわけだが、「それで自由になったのかい」と唄う岡林自身が増大するコンサートにがんじがらめにされ自らも自由を失い、「俺らいちぬけた」と嫌気がさしてしまったように、人気アーチストをきわめて非人間的な環境におき、しかも搾取に近いような低い給料しか払わなかったことや、体制批判の音楽で儲けているという矛盾とそうした商業主義批判も膨れ上がり、結局先に高石、岡林が抜けた音楽舎に属していたアーチストのほとんどが秦の下を離れてしまう。
事実、URCの最盛期には、北新地にクルセイドという名のバーや、競馬の馬、その名も「シングアウト」という馬さえ持っていたそうで、儲けた金を公私混同して博打にさえ流用していたらしい。これでは人心は離れるし、フォークリポートの発行のように意義ある企画もしたが湯水の用に金を使っていれば、当然会社は傾いていく。そしてURCの活動にとどめを刺すようにわいせつ裁判が始まる。
これは、早川義夫らが編集していたURCの広報誌「フォークリポート」に中川五郎が戯れに書いた小説が猥褻だと挙げられて、秦と五郎が被告として裁判が始まった。その雑誌に載せた小説「二人のラブジュース」を授業中読んでいた高校生が先生にみつかって没収され、その雑誌が当局の手に渡り、猥褻文書だと告発されたもので、猥褻とは何か、表現の自由をめぐって多くの文化人も法廷に立ち、一審では無罪となったものの、最終的には二審の有罪が確定してしまった。
今日の目でこの事件を振り返ると、ちょうどその頃起きた浅間山荘事件と軌を一にする国家・体制側による反体制運動弾圧、取り締まりの一環であり、つまるところ、反体制と同義であったフォークソング運動を取り締まるべく、規制の効かない流通方法を用いてそうしたレコードを販売していたURCを狙っての“弾圧”であった。被告である秦と中川五郎は、「性と文化の革命」よろしく最後まで果敢に権力と闘い続けたのだが・・・。
70年代が進むにつれ、フォークソングは、大手音楽産業の金儲け手段となり、ニューミュージックと名を変えて、当初の志は変質し失せてやがて人気アーチストたちによる管理された野外大イベントが商業的に成功していく。歌い手も後から出てきた拓郎、南こうせつ、陽水ら、フォーライフ系というか、今でいう“勝ち組”と高田渡、加川良ら“負け組”とにはっきりと別れていく。そこにはもうURCの出番も意義もどこにもなかった。
結局のところ、音楽舎には人気あり売れるアーチストもいなくなり、会社としても金がなくなり、レーベルとして在庫アルバムは他社に販売を委託していくが、その会社も次々と潰れてしまい、秦は最後のほうは、一人でURCの原点に戻ったかのように再びほとんど無名の、働きながらうたっている人たちのアルバムを出しては通販で直売するというようなことをやっていた。当時増坊もそうしたアルバムから中島光一氏のものを入手した記憶がある。地味だが手づくり感の強い良質なレコードであった。自分にとっての秦氏との接点はそこだけで終わる。
長くなったがURCとオフノートについてはあと1回づつ書いて終わりにしたい。