★古本音楽ハウス「無頼庵」オープン記念の特別ライブのお知らせ 2012年3月24日(土)中川五郎&村上律 ジョイント コンサート@無頼庵(マスダ家)

お待たせしました。ブックカフェ・古本音楽ハウス無頼庵
のオープンを記念して盤上律五郎
ことミスターフォークソング・御大
中川五郎・村上律の大ベテランお二方をお迎えしてライブコンサートを開催します。 ぜひどなたでもお気軽にお越しください。日本のフォークソング史にその名を残す大ベテランお二方による心を熱くさせる共演ライブです。◆日時:2012年3月24日土曜 午後5時開場 律五郎ライブ開始6時の予定
※オープニングアクト有◆場所:東京・昭島市古本音楽ハウス「無頼庵」
※参加申し込みされた方に地図お知らせします。JR青梅線昭島駅下車歩約10分◆料金:予約2千円 当日2500円 律五郎を囲んで懇親会参加費千円。
※お早めに参加予約された方は豪華料理&飲み物フリーの懇親会参加費を無料にします。◆問い合わせ・来場予約:無頼庵マスダ090-8175-8479
★当ブログのコメント欄に連絡先とご氏名人数をコメントされてもかまいません。また律五郎氏に直接申し込まれても。★観客席数は20席ですので、どうかお早めに予約お願いします。
大勢のフォークソングファンの方々のご来場を心より店主マスダとスタッフ一同お待ちしております。
詳細は無頼庵の別ブログ http://masdart.asablo.jp/blog/ も覗いて見てください。※この情報は1月半ばのものです。詳しいことは3月になっての直近のブログをご確認ください。
★今回は律さんの味わいバンジョーの他に超絶ラップスチールギターも堪能できます。ほんま凄いでっせ。それに五郎さんの熱唱も百万光年の彼方へと冴えわたる。ジャンプしてもいいけど本の山を崩さないでぇ~!
2011年10月29日ブックカフェ『無頼庵』プレ・オープンイベントの様子を画像を中心にご報告する。
三多摩の片田舎にできた秘密結社的ブックカフェ無頼庵に、多くの関係者が集い、素晴らしい唄と料理と酒で秋の一日を楽しく過ごした。以下その記録と記憶。

★開場は1時だったが、予定より遅れて2時過ぎにお客さんが揃い始め2時半よりライブが始まった。

★トップバッターはベテランシンガー「語り歌」の
館野公一。観客の心をしっかり掴んだ。

★続いて登場は
宮瀧順子、ギター伴奏は井形大作。心温まる歌声が響く。

★クールなナイスガイ、
井形大作
★ジョン・ホールの名曲反核ソング「
パワー」を日本語詞でみほこん、宮瀧順子も加わり熱くうたった。

★初参加で今回初登場の
オボヒロさん。

★合間合間に参加者の皆さんひたすら呑んで食べて。会場の様子A

★ひたすら呑んで食べてる会場の様子B

★増坊が最近親しくお付き合い頂いている
ヒゴさんはひょうひょうと。

★小作ルシールで魅せられてお招きした西多摩フォークジャンボリーの
西島寛二は観客に深い感銘を与えた。

★謎のカンザシ職人が特製タルトをこしらえてくださったので皆でおいしく切り分けて。

★ライブは佳境に入り、ハロウィンの衣装で人気者
みほこん登場!

★おっちゃんのアイドル
みほこんに会場のおっさんたちはメロメロに。

★プレ・イベントライブのトリは、新潟出身の
藤しんいちろう。観客を大いに笑わせ沸かせて場をしっかりと締めた。ご出演の皆さんお疲れ様でした。

★一応散会の前に皆で記念写真を撮りました。先に帰った方も、この後に来た方もいたので全員ではない。いい歳してカメラ向けられピースマークしているおバカさんが若干いるのはご愛嬌である。
青梅線小作のライブハウス「ルシール」での
「青梅・春一番」コンサートⅤol.1
・出演者登場順に









良いライブであった。そしてまた新たな出会いがあり、これもまた偶然かつ必然のことだったようにも思える。何より地元で、近しい志しの「仲間」たちと出合えたことが嬉しい。
すべてのことはまずは自ら身近なことを、まず自分の周りから始めなくてはならないとはわかってはいた。が、正直なところ自分の住む町や日頃利用している青梅線沿線で何かできるとか、そこに近しい思いを持つ仲間がいるとは考えてもいなかった。
そう、これがどこか地方都市で自分がそこに嫌でも住んでいればきっとその場所を舞台に何か仕出かそうと考えたと思うが、立川や日野の隣、青梅線でも中央線からすぐのところに暮らしているとどうしても目も考えも中央線のどこそこへ向いてしまう。
だから常に目も志向も東側へ、つまり何をするにも立川国立以東のどこかが念頭にあった。反対に逆方向、青梅奥多摩方面で何かがあるとかそこで何かをやろうなんて全く頭になかった。理由は簡単で、そんな不便な田舎には都心から足を運ぶ物好きは来ないと決め付けていたからだ。またそこに自分と似た嗜好の人がいるとも思えなかった。
だがそれは間違いであった。それも根本的な誤りであった。
青梅には以前友人の弟がやっていたユニークなライブハウスがあったのだが、あとはせいぜい福生の基地周りにいくつかあまり印象の良くないライブの店があるだけで、ちゃんとしたライブハウスはもはや青梅線沿線にはないと何となく勝手に思っていた。
ただ、今回初めて小作のルシールへ行き、名前だけは覚え知ってはいたこの店を失念していたことを本当に恥ずかしく申し訳なく思う。決してキャパは広くはないが非常に理想的な作りで音も環境も良いライブハウスである。マスターも感じ良い方だが、そこでは定期的にフォークジャンボリーとして地元青梅線沿線に住むアマチュアミュージシャンのために曜日を設けてステージを開放していたのだ。
そしてそれを企画していたのが林敏明さんで、昔1970年代の大阪春一番に関わったという大阪出身の彼は故あって現在青梅に移り住んでその「地元」のためにここ小作のライブハウス・ルシールを拠点にフォークのイベントを仕掛けているのだった。そして今回ついに本家大阪春一に縁あるミュージシャンを招いてここ青梅で『青梅・春一番』の第一回目を企画開催したのだ。それは本当に素晴らしいことだと思える。
そのコンサートには一部に地元のミュージシャンたちが、休憩を挟んで村上律、シバ、そして中川五郎ら70年代以前から音楽活動を続けている春一常連の超ベテラン勢が登場し、それぞれ自らのうたの世界を熱くうたった。
ローカル線青梅線という制約もあり、時間的に押して午後11時でアンコール無しで残念ながらお開きとなってしまったが、地元のシンガーも含めて質の高い良いライブコンサートであったと思える。何よりもこうした春一スピリッツにこだわって、商業主義とは一線を画したところに立ち手作りでライブ企画を立てている人がいるのが嬉しくて感心した。勝手ながら同志を得た気がした。
自分は残念ながら本家春一番からは出入り禁止の身であるが、これからはこうした地元に目を向けて、林さんを見習い青梅線沿線でも地道な活動を続けている人たちをもっと応援していきたいと思った。こんな自分でも何かできることがあるはずだ。
そう、うたはどこにだっていつだってあるし場所を選ばない。本当に良いものならばどこにいたって必ず人の心に届く。それは田舎だってどこだってかまわない。
何も中央線にでなくたって良いほんものの音楽を愛する人たちはかならずいる。まずは自分の足元から、身近なところに目を向けて、一歩一歩はじめていこう。そう、それがうたなんだ。
どこか特別なところで特別な人たちに向けてうたうことを考えていた。自分は間違っていた。全てはまずはここからなのだ。ここから始めていく。

みほこんから急遽メールが届き、彼女も出るコンサートが谷保の団地であるというので、近所ということもあり慌てて雑用を片づけ夕方から出かけてきた。
が、青梅線が立川の手前で信号事故だか何だかで数十分も停まってしまい、会場についたらみほこんが終わったところで、結局最後のほうしか観れなかった。まあ、そんな日もある。
終演後、後片づけを手伝い、残った出演者や観客たちとジョナサンであれこれ楽しく歓談した。彼らと出会えてまた新たな今後につながる出会いを得たと思った。皆同じ志を持つ仲間たちであった。みほこんのおかげである。
11時近く店を出て散会。みほこんと駅へ向かい、南武線谷保駅では彼女の帰る方面はすぐ電車は来たのに、立川方面はえんえん20分待たされて、立川でも青梅線の連絡悪く、谷保は自転車でも行ける距離なのにウチに着くまで一時間近くかかったのにはうんざりした。そう、そんな日もある。おかげでホームでまた一曲うたができた。


★
第45回詩人会議新人賞は田中茂二郎氏の「有馬敲論」

★秋村宏氏から賞状と記念品を授与される
田中茂二郎氏。


★受賞者全員で記念写真※携帯で撮ったので一部欠けた方がいらして失礼。

★土井大介氏が祝賀会の音頭をとって、乾杯後ゲストの
有馬敲氏が挨拶した。

★詩神に導かれて新たな出会いが
雨の土曜日、京都の詩人・有馬敲氏に誘われて詩誌「詩人会議」の総会と授賞式とその後の懇親会にも参加してきた。とても有意義な出会いであった。その報告をすこし。
有馬さんとは先年、オフノートが企画したゴールデン街劇場での関西フォークを回顧する催しで出会って以来懇意にして頂いている。昨秋は東京両国フォークロアセンターで、フォークシンガー岡大介らと全詩集刊行を記念して詩の朗読とフォークコンサートを企画できたし、こちらが京都に行けばご挨拶に伺い、彼が東京に来られるときはカバン持ちとして同行する間柄となった。今日もかねてよりそのお知らせがあり、昨秋以来お会いできるのを心待ちにしていたのだ。
有馬さんが今回来られたのは、詩誌「詩人会議」の新人賞、評論部門に田中茂二郎という人の『有馬敲論 ことばの穴を掘りつづける』が入選し書き手とも旧知の関係でもあられたのでその授賞式の出席が目的であった。
群れることを好まず詩壇とも距離を置く有馬さんであったが、「詩人会議」とは以前より特別会友として関係が深く、まして新人賞受賞作が彼のことを論じた評論だったこともあり、今回の参加となったようだ。
会場は日本青年館の一室で、自分は信濃町から歩いてその集いのあるフロアに向かった。ちょうど会員方々による総会の最中でもあり、運営に関して会議中で熱い討論がさかんに交わされていた。まさに“詩人会議”だなあと思った。
受付で有馬さんを呼び出してもらい一階の喫茶店に降りて近況報告など雑談を交わして再び会場に戻り自分もまた受付で名札をもらい懇親会にも参加することとなった。
有馬さんからさっそく出たばかりの今月号の「詩人会議」誌を頂き、田中氏が書かれた『有馬敲論』を総会の間に熟読した。決して長文ではないが、過不足なく実にこの詩人の足跡を丹念に調べ追いかけ仕事を掘り下げていることにまず感心した。有馬敲は高田渡のうた「値上げ」の詩人として世に知られてはいるものの、残念かつ不当なことに詩壇での扱いは決して高くはないのではと思っていた。彼に関して個々の評論は多くあるはずだが、知る限り今年傘寿を迎えるこの詩人の全仕事についてその全体像を描いた評伝、評論はなかったはずだ。それがようやく今回、田中茂二郎氏によって、有馬敲論が書かれ世に出たことをまず心から喜びたい。
この老詩人の仕事は非常に多岐にわたり、「値上げ」、つまり原題「変化」など初期のコミカルな世相風刺詩だけにとどまらず、オーラル派として詩朗読の活動、さらには海外の詩人との幅広い交友と遠征、近年の生活語詩運動と老いてなお抜群の行動力で多彩な活躍を続けている。その上に未踏社から出している叢書『有馬敲集』もついに第20巻を超えた。この叢書は彼の若き日の日記から発表された詩、評論、小説に至るまで全仕事を自身がまとめあげ再編して出しているもので詩文学史のみならず現代史の資料としてもとても面白く貴重なものである。今や有馬敲の活動は存在そのものが全体詩人であり、刺激的かつとても示唆に富んでいる。こんな八十歳は知る限りいない。
詩というものが言葉で人の心に風穴をあけるものだとしたら、今や彼の存在自体が詩になっている。会えばいつも良い衝撃を受ける。そんな素晴らしい方とお近づきになれたことを光栄に思うし、会うといつもその後は興奮し、拙いながらも詩や音楽が自分の中からも次々と湧き上がってくるのである。
今回、歴史ある第45回詩人会議新人賞の評論部門に入選された三重の田中茂二郎氏とも親しく言葉を交わす機会を持つことができた。彼も昔からのフォークソング好きで、なかでも高田渡ファンとのことで意気投合してあれこれ話も大いに弾んだ。また他にも作詞活動を続けているグループの方との出会いもあり、新たな世界がまたここから広がった日となった。秋村宏、土井大介氏ら名だたる詩人方々を知る機会ともなった。
授賞式が終わり宴はまだまだ続いていたが、中途で会場を抜け出し、小雨そぼふる外苑を有馬さんと足早に歩き信濃町に向かった。水道橋まで電車に乗って後楽園前、外堀通りに面したビジネスホテルに有馬さんを送り自分の役目は終わった。道中たくさんの貴重なお話は怠け者の若輩を十二分に叱咤激励してくれた。
大型連休に関西で受けた心の傷は、京都の老詩人と過ごす時間のうちにやんわりと癒された。もう過ぎたことはどうでもよい。自分にできる自分にしかできないことをしっかり寸暇を惜しんでやっていこうと誓った。
★被災地の方々と思いを共にしなければ
今、あの大震災の日から時間がたち、かの地を訪れたときの画像を自ら今また見直して、これは単に物見湯山的見物ではないのかと自問している。ほとんど何も被害のなかった安全な地にいたものが今も変わらない平穏かつ満たされた生活を送りつつ被災された地のことを身勝手にもネットに「報告」していることを恥じ入る気持ちもある。
しかし、この大震災の全容は、今もまだ記録も報告もされていないし、復興、復旧のためにもその実態はもっともっと世にしらしめる必要があると信ずる。そしてこれらのことは地震国、いくつもの異なるプレートの上に乗っかっている日本という国にはいつまた近くどこかで必ずや起きることなのである。そのことを誰もが深く認識すべきであるし、巨大津波に襲われてしまえば人智の限りの対策を尽くしたとしても自然の力の前に人間はどれほど非力であるか思い知らねばならないと考えた。科学は万能ではないし、この世には絶対も永遠も存在しないことに気付かされた。
さて、今回の大震災、原発事故の問題をさておけば、復興の最大の障害は巨大津波や地震の被害で生じた「がれき」の処理であろう。いわきの浜でも幹線道路沿いにある、さほど津波の被害はなかったと思われるような家でももはやそこに住むことは断念されたらしく多くの建物に所有者自らが貼りつけた家の「解体」を許可し依頼する板が残されてあった。
それには「この建物は私のです。解体を承諾します。撤去をお願いします。」とあり次に電話番号と氏名が書かれてある。しかし、海岸沿いの家々、原型を留めていても津波に破壊され放置されたままの家々にはそうした札や張り紙は一つも見当たらない。おそらく住民は津波に流されたまま未だ行方不明なのかと案じて胸が痛む。行政としては壊れた車などと同じく所有者の許可なくして勝手に処理はできないだろうからその扱いにも苦慮するだろうと考えた。


★農家で言えば庄屋か豪農のような立派な古めかしいこの家も、解体を諸諾する札が貼り付けてあった。玄関の中も靴や置物などあの日のまますべてが残されたままである。


★こちらは海沿いにある建ててまだ間もないと思われる、所有者が消えてしまった家々。海に面していた一方向から爆風を受けたかのように二階までも破壊されてしまっている。大津波の巨大な力にただ圧倒される。




★防波堤のすぐそばに建つ、この瀟洒な白亜の館は、コンクリート製ということもあり外目にはほとんど被害は見受けられなかった。しかし中は津波が通り抜け、住んでいた人たちはさらわれてどこかに消えてしまったのだろうか何の張り紙もなかった。そして大津波を運んできた海。穏やかでとてもそんな巨大津波がこの海から来たとはイメージもできなかった。

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命の重さと生活の脆さ、はかなさよ
コンサート二日目の朝、ライブハウスの前に9時半に集合して、せっかくいわきに来たのだから被災地をじっさいに訪れようと希望者は海岸沿いを目指し昨日乗ってきたツアーバスにまた乗り込んだ。
ご存知のように今回訪れたいわき市は、福島県でも地図で言えば下の方に位置し茨城県のすぐ上である。東京からも近く、高速に乗れば二時間もかからないかと思える。東北というイメージはまったくない。しかし市内から一番近い海岸線に向かうとそこには、マスコミ報道でさんざん目撃した津波に襲われた被災地が我々を待っていた。
市内を出て海沿いに向かうと道路はとたんに悪くなり、亀裂や段差が激しくなってきた。そして塩谷岬のホテルの駐車場にバスを停めさせてもらい「現地」に降り立った。




一言でいえば海岸線まで見渡す限りのがれきの山である。ところどころ家も残ってはいるが、ほぼ全部が傾き半ば倒壊寸前である。目の前は膨大な量のゴミが打ち寄せらたままだ。いや、ゴミというのは正しくない。今までこの地区に住んでいた人たちの生活物資のすべてだ。それら生きていた人たちの持ち物一切合財が津波に流され打ち寄せられたまま朽ちていこうとしている。


★訪れた人が、たむけたのか花束が朽ちていこうとしていた。

この地区は、国道なのか剣道なのかわからないが、広い幹線道路が地区を二分していた。道路を挟んで小高い山側と海側である。海岸沿いの地区は幹線道路より何メートルか低くなってそこには生活道路が何本もあり、多くの住民の家や水産加工場のような建物もあった。しかしその海側、つまり幹線道路より低かった地域はほぼすべて津波に襲われ山側のあった住宅を残して海側はまさに壊滅的被害を受けた。見渡す限りほぼすべてががれきと化しているし、かろうじて残っている家も原形を留めていない。幹線道路沿いから始まっている瓦礫撤去に携わる作業員以外、生きている者は動物も含めてだれ一人いない。まさにそこは死の町だった。
その地に降り立って、誰一人声も出なかった。誰もが言葉を失った。


そして今ようやく幹線道路沿いから順に重機と作業員が入り、がれきの山を分別しゴミとして搬送し始めている。ところどころ更地になったところも見受けられた。
★
まずいわき市内の様子から
3.11の東日本大震災については既に各種報道は成されて、テレビでは特番も組まれているし、全貌を記録する写真集のようなムックもいくつも出されている。が、ほんの短時間であったが、「被災地」を訪れる機会を持ち自分なりにそこで見てきたこと考えたことなどについて報告したいと思った。
以下画像を交えて現地の様子をお知らせし私的に記録しておきたい。
誠に迂闊で恥ずかしい話だが、今回の大震災、被害の大きかった東北三県のうち、巨大津波に襲われ大きな被害があったのは、岩手、宮城の海岸沿い、いわゆる三陸海岸の辺りの話で、福島は抱える原発事故などによる避難や退避などでの被害が大きく津波はさほどではないのではと考えていた。今では千葉県でも海岸沿いの地域では数百件の家が流されたりかなりの被害があったと人から聞き、茨城も含めて太平洋に面していた海岸沿いは総じて津波に襲われ甚大な被害があったことを知っているが、訪れた頃の自分の認識は福島の津波被害は大したことないだろうという甘いものであった。岩手や宮城に比べて報道されるのは原発事故の状況ばかりということもあったからだが、それが現地を訪れ見たことはまさに言葉を失う惨状であった。思わず「世界の終り」という言葉が頭をよぎった。
今回自分が福島県いわき市を訪れることになったのは、好漢平井正也君が企画した被災地支援コンサートに参加するため彼が手配してくれたスタッフ関係者用のツアーバスに乗れたからだが、高速道路はもう普通に動いていたし、いわき市に入っても車窓から見る限り大地震の爪痕はほとんど何も感じられなかった。JRいわき駅近くの商店街も通常にやっていたし、原発の風評被害を除けばいわきの人たちは前の通りの生活を送っているように思えた。
しかし、目をこらせば、地震の揺れで瓦が落ちたようで屋根には青いビニールシートがかかっていたり塀が倒れままだったり、歩道のブロックが崩れたりして修復がまだなされずそのままになっているところも多々あった。あちこちかなり危険であるし歩きにくい。




また街を歩いていると入口に紙が貼ってある建物がたまにあって、読むと、赤い紙は、倒壊の危険性があるので立ち入りを禁ずるもので、黄色い紙は物が落ちてくる可能性があるなど注意を呼びかけるものであった。



上の写真はライブハウスの向かいの商店だが、右の八百屋は営業中だが、左の食堂には赤紙が貼られていて無人となっていた。横から覗いてみると確かに著しくひしゃげている。これではもう一回大きな余震が起きたらぺっちゃんこであろう。↓

この日、震災から二か月目前で、ようやく老舗のコロッケ屋が営業を再開した。長年いわきの人たちに親しまれてきた店らしく、裏通りにありながら終日長い列ができていた。増坊も開演前に買い求め食べてみた。衣が硬くて食べごたえがある昔ながらのコロッケだった。
